三思一言◆ つれづれに長岡天満宮⑻ 2018年8月4                    

智忠親王と寛永文化

◆智忠親王の優れた才能と行動

 八条宮家初代智仁親王は、数奇な運命に翻弄されながらも、細川幽斎に歌道や古典文学を学び、書・香・茶など諸芸の造詣も深く、江戸時代初めの宮廷社会を代表する文化人となりました。

 寛永6年(1629)、51歳で智仁親王が病で亡くなった後、宮家を継いだのが智忠親王です。親王はこの時11歳の若君でしたが、師の昕叔顕晫(きんしゅくけんたく・相国寺慈照院主)「人とは思えないほど賢い」と日記に書き残し、佐野紹益(さのしょうえき・本阿弥家出身・京都町衆の代表的人物)は、高貴でやさしい人柄を褒めたたえています(『にぎはい草』)

 寛永19年、24歳の時、親王は加賀前田藩主利常の娘富子(ふうこ)と結婚します。富子は徳川家光や後水尾上皇の后・東福門院和子(まさこ)の姪にあたり、幕府や朝廷に対して智忠親王の立場をさらに良好にするものでした。

 血筋が良く、文学・学問の才能豊かで、経済的にも恵まれた智忠親王は、この後今出川屋敷や下桂の茶屋の造営・再整備に果敢に取り組み、当代一流の文化サロンをつくりあげていくのです。

 

◆八条宮家の今出川屋敷と御茶屋の造営

 八条宮家の今出川屋敷は、慶長10年(1605)、後陽成院御所造営に先立って行われた屋敷替え以来、宮家廃絶の明治初めまで使われました。屋敷跡は現在、宮内庁の管轄となっていますが、上の写真のように門や土塀が今でも残っています。

 今出川屋敷には、移転直後からさっそく書院や庭が整備され、さまざまな人々の交流の場となります。ここを訪れた鳳林承章(ほうりんじょうしょう・金閣寺住持)は、数寄屋や御茶屋で、茶湯や珍肴の接待をうけたようすを記しています(『隔蓂記』寛永14年10月6日条)。そして、智忠親王と富子の婚礼を機に、屋敷は一層雅な趣向が凝らされました。慶安5年(1652)には後水尾上皇の行幸もあり、「八条殿之亭上」から「御遠見」をしています(『隔蓂記』慶安5年3月28日条)

 寛永年間を中心として、元和から寛文年間の約80年、後水尾上皇・東福院門和子を中心とする宮廷や、相国寺などの僧侶、上層の町衆などによって繰り広げられた雅な古典文化を「寛永文化」とよびます。智仁親王・智忠親王もこの輪のなかの有力メンバーであり、そして寛永文化の重要な場である御茶屋(別業)造営のトップランナーでもありました。

 八条宮家の領地と御茶屋を、下の図に示しました。下桂御茶屋(現在の桂離宮)の素晴しさをここで語り尽くすことはできませんので、①智仁親王が元和ごろから造営した下桂御茶屋を、現在のような形に完成させたのが智忠親王であること、②それは後水尾上皇との切磋琢磨と行幸が背景にあったこと、③下桂御茶屋とともに眺望を楽しむ御陵御茶屋(みささぎのおちゃや)が同時に営まれていたこと、の3点を述べておきます。

 そして忘れてならないのが、八条宮家の特別な御茶屋として開田御茶屋(かいでんおちゃや)があったことです。開田御茶屋は八条宮家にとってどのような存在だったのでしょうか。そして、それはいつ・どのようにつくられていったのでしょうか。次回はいよいよ本題です。

 

ー参考文献-

・西和夫・荒井朝江「桂宮家御陵御茶屋と地蔵堂」『日本建築学会計画系論文報告集』№380 1987年

・小沢朝江「桂宮家の今出川屋敷における御茶屋について」」『日本建築学会計画系論文報告集』№463 1994年 

・斎藤英俊・穂積和夫『桂離宮 日本建築の美しさの秘密』草思社 2012年

 

桂宮家の領地と御茶屋

 下桂は、藤原道長の桂家(かつらや)があったところで、『源氏物語』「まつかぜ」の巻にみえる光源氏の別荘桂殿(かつらどの)のモデルといわれています。智仁親王は細川幽斎から『源氏物語』の講釈をうけていますので、下桂の茶屋づくりは桂殿跡を探し求めることから始まりました。はじめの書院は一の間・二の間に縁座敷・広縁・月見台があり、台所・湯殿・厠が附属するという簡素なものでした。親王はここを「瓜畑のかろき茶屋」よび、親しい客人らを招いて、舟遊びや月の宴詩歌・管弦を楽しんだのでした。

下桂の茶屋(桂離宮) 園林堂

 寛永18年(1641)ごろから、智忠親王は父の死後荒廃した下桂の茶屋の再整備を始めます。後水尾上皇の行幸に備えて、書院を増築し、庭園をつくり、庭園のなかに宴遊や舟遊びを催す趣向を凝らした御茶屋を建てました。杮葺きや草葺きの建物のなかで唯一の瓦葺きが園林堂です。この持仏堂も智忠親王が新たに建てたもので、御水尾上皇宸筆の額が掲げられ、智仁親王の尊影と細川幽斎の尊像が祀られました。

修学院離宮の眺望

 修学院の地に後水尾上皇の離宮造営が始まったのは明暦元年(1655)ごろ、完成は万治2年(1659)です。上皇は明暦4年におしのびで下桂の御茶屋に行幸しています。隣雲亭からは浴龍地を見下ろし、松ヶ崎~岩倉・鞍馬・貴船、御所の向こうには愛宕山~山崎まで、一望に見晴らすことができます。智忠親王薨去後の寛文3年、上皇は再び下桂の御茶屋に行幸しており、二つの御茶屋は、上皇と八条宮家との深い縁を伝えているのです。