三思一言 勝龍寺城れきし余話(26) 2024.05.15

細川家記『綿考輯録』を読む

◆『綿考輯録』とは

 平和の時代を迎えた江戸時代はじめ、諸藩では系図や家記を幕府に提出するため、あるいは藩主や家臣の発意による先祖の事績編纂が、さかんに行われました。細川家でも「細川家伝」・「細川全記」・「御家伝」・「御家譜」(平野長看選)などがありますが、その中でも江戸時代中期に大成された「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」は、活字本が出版されて以来(初代藤孝~4代光尚、汲古書院発行『出水叢書』全7巻)、江戸時代に細川家において認識されていた歴史観を、体系的に一覧することができるようになりました。

 「綿考輯録」は、藩士・小野武次郎(景辰・景湛)が、宝暦2年(1752)に宇土藩の藤孝公・忠興公御年譜の書写から始め、三十余年をかけて諸本や古文書・古記録などを引き合わせて考察・吟味したうえで、自身の見解を書き綴ったものです。記事は概ね年代順に書かれていますが、巻七は幽斎の詠草、巻八は幽斎の学芸や文化面でのエピソード、巻十三は細川ガラシャについての特集となっています。典拠とした史料を一つ一つ丁寧に引用してあり、今日における評価や批判をふまえるにしても、やはり細川家研究にとっては、まず参照すべき基本文献なのです。

◆「山城国西岡御領知之図」

 家祖・細川藤孝が、信長配下の戦国大名として大きく飛躍した西岡(にしのおか)勝龍寺城(綿考輯録では青龍寺城と表記)はいったいどんなところだったのか、家譜編纂では大きなテーマです。巻二では、まず米田家に伝来した元亀2年(1571)10月14日付け信長書状を写し、「考、米田家記青龍寺御城平城而要害不堅固付、求政に御相談なられ候へは、御城の外二重堀を仰付、其上に土居を築き然るべきよし申し上げ、夫役御願いの事も求政存じ寄り申しあげ、裁判をもって三日の内に堀・土塁成就いたし候」と注記しています。

 さらに、元亀4年7月10日に、信長朱印状で「城州之内、桂川を限る西地」の一職を与えられた項では、勝龍寺城跡について「今以て御本丸の地と見え、畑作りに成りて、東西五十間ほど、南北四十間ほど、土居の跡高くして藪なり、水堀廻りて、その外堀の様子など、今以てそのままと見ゆる所多く、沼田丸・松井・米田・神足屋敷など申し伝えこれあり候、初めはいたって小城なりしを追々御広めなられたる」と叙述。そして「御城跡并方角之絵図」を別紙として作成しており、当時の世相を反映して、勝龍寺城の姿をビジュアルに伝えようという意欲が伝わってきます。

 この別紙の絵図に当たる「山城国西岡御領知之図」(縦98.3×横106.7。紙本彩色)は、信長から領知宛行をうけた西岡村々、それをつなぐ街道と勝龍寺城の関係を示したものです。それらの地理的認識は概ね的を得ており、江戸時代中期に出版された『山城名勝志』の付図(乙訓郡図・葛野郡図)を下敷きに、巧みに合成して一枚にまとめあげています。

 勝龍寺城の復元部分は、現地見分にもとづいた独自の描写で、横長方形の堀で囲まれた本丸+沼田丸+沼田・松井・米田の重臣屋敷を中心に、北は外堀と神足屋敷、南は勝龍寺と築山屋敷が固めるという構図は、発掘調査や文献史料の検討が進んだ今でも、大きな影響力を及ぼしているのです(イメージ・細川藤孝の勝龍寺城)

◆志水清久・革嶋市介と細川家

   細川藤孝の父や養父は足利将軍家の奉公衆で、また藤孝自身もそのような立場・身分から戦国大名への転身を図りました。したがって当初はわずかの家人が藤孝を支えていたのですが、足利義昭の擁立、信長入京への加担、信長家臣団の一人として成長していく過程で、さまざまな経歴と役目をもつ家臣を召し抱え、家臣団を作り上げていきます。細川家では家譜を編纂するにあたり、藩士から各々「先祖附」を提出させ、『綿考輯録』では様々な場面でそれを引用し、考察を加えています。

 ここでは、「勝龍寺城以来の面々」の代表として、志水清久(新之丞・雅楽助・伯耆・宗加)がどのようにとりあげられているか、その一端を紹介しましょう。まず登場するのは、永禄11年(1568)9月の信長入京の近江侵攻で活躍するくだり。ここには出身からはじまり、若年頃佐々木承禎(六角義賢)に仕えたころより軍功をあげ、箕作山城攻めに馳せ参じて藤孝の配下になったことが、諸書引き合わせながら記されています(巻一)。また元亀4年(1573)7月に信長より領知宛行をうけた藤孝が、8月に志水清久へ発給した本領安堵状も、そのまま写して、藤孝と清久の西岡以来の関係をしっかりと叙述(巻二)。

 写真は、大岡荘と革嶋氏の用水争論にさいし、藤孝の奉行人が革嶋市介に宛てた起請文と裁許状です(革嶋家文書)。米田求政・松井康之とならんで、志水清久の名が見え、この6月14日付けの裁許状も、しっかりと全文が引用されて考察されています(巻二)。志水家や革嶋家には、それぞれ藤孝との密接な関わりを示す戦国時代の古文書や覚書、そしてこれらをまとめた江戸時代の家譜が伝わっていますので、この二人の動向を読み進めることは、『綿考輯録』の史料性を理解するために、とても大切な方法となるのです。

 志水清久は藤孝の丹後転封について行き、「先祖附并働之覚書」によれば伯耆守と名乗り、1000石の禄を得ました。天正14年10月、幽斎(藤孝)のたっての誘いで宮津を訪れた吉田兼見は、天橋立など名所見物の後、「志水伯耆守宿」にて風呂に入り休息していますので、西岡以来から続く親しい関係がうかがえます(『兼見卿記』天正14年10月25日条)。

 慶長12年(1607)7月、細川の家督を継いだ忠興の転封先・豊前小倉で和歌会があり、この時の様子も興味深い記事です(巻六)。「住吉名号」の掛物の前で、乞われた幽斎は老体を押して発声をしますが、その座衆のなかに「宗加」と名を改めた志水清久の姿がありました。永禄11年に家来になって以来、幾多の困難を共にした40年にもわたる主従の絆を思わずにはいられません。

 

-参考文献-

・『綿考輯録』第一・第二巻 出水神社発行 汲古書院 1985

・『長岡京市史』資料編二(「家分け文書」として志水家文書を翻刻) 

・『長岡京市史』本文編一(細川藤孝の家臣団を考察) 1996

・金子拓『記憶の歴史学 史料に見る戦国』 講談社 2011

・生嶋輝美「家臣団形成期の細川藤孝と「東寺の宗及」」『年報中世史研究』第48号 2023

 


▶建仁寺塔頭・永源養源院と永青文庫 明治初めに正伝院と永源庵が合併して、現在の寺号となる。元々ここにあった永源庵は、南北朝時代に細川頼有の帰依をうけて創建され、以来細川家と縁が深い。肥後細川分家の一つ、宇土支藩主初代の細川行孝(1637-90)は、延宝元年(1673)参勤の折にここに立ち寄り、藩祖ゆかりの根本資料と確信して、和泉上守護・細川家ゆかりの什物や古文書を熊本藩へ献上するよう取り計う。『綿考輯録』でもこれに基づき、細川藤孝の養父を細川元常とする立場を力説。細川昭和25年(1950)に細川護立によって設立された「永青文庫」は、永源庵の「永」と青(勝)龍寺城の「青」の字をとって名付けられたものです。